ども、菊本です。
今日は僕のことをもっと知りたいというマニアックな方のために、ちょっと詳しく自分のことを書きたいと思います。
しかし、長いので気をつけてください。
読み終わるのに10分は覚悟ください。
では、どうぞ!
生まれたところ
長野県の白馬村というところです。
スキー場で有名なところですね。
実家は、スキー場まで歩いて10分ほどの場所にあります。
そのため、小学校の時の遊びはもっぱら「スキー」でした。
地元の子は、シーズン券をかなり安く購入できたため、学校終わって放課後はスキー場に行きナイターを2時間滑り、家に帰って晩御飯
みたいな生活をしていました。
休みの日もほとんどスキー場に入り浸っていた記憶があります。
実家がペンションでリゾバのお兄さん、お姉さんがたくさんいたので、遊び相手には困らず、スキーもたくさん教えてもらったのでかなりうまくなりました。
地元のスキー場はくまなく全部滑ったので、途中から飽きてきて、コース外の場所や、絶対に行っちゃいけない谷みたいなとこも滑りまくっていたので、パトロール隊に見つかりよく怒られていたのはいい思い出ですw
ところでよく人に、僕が白馬出身の話をすると、「海の無い県なのによくフリーダイバーになりましたね」
と言ってくれる人がいるのですが、そうゆう方に言いたいことがあります。
1、白馬は長野県のかなり北の方にあり、最寄りの海である新潟県糸魚川まで車で1時間で着く
そのため、県単位で海がなくても海が遠いということにはならない
実際夏場はよく糸魚川にキャンプに行き、海で泳いだり、サザエなどをとって遊んでいました。
2、フリーダイビングで大切なことは、海に慣れているということの他に、耳抜きがしやすい体質、肺活量の大きさ、メンタルをコントロールできるなどがあり、必ずしも小さい頃から海に慣れ親しんでる人が有利とは限らない
むしろ、心拍数を減らす、肺活量を増やす、血中ヘモグロビン量を増やすためには有酸素運動特に高地での運動が有効とされ、この点を考慮するとむしろ山育ちの方が有利だったのでは無いかという仮説が立てられます
つまり、海がない県で生まれたこととフリーダイバーになったことは彼らが考えているほど相反する事柄ではないということである。
まあ、言ってくれる人はただの会話の流れで話してることがほとんどだと思うので、悪気は全くないと思います。
ただ、同じことを何回も聞かれると若干めんどくさくなることも事実で、自分が相手に同じようなことをしていないか考えられるきっかけになったので良かったかなと思います。
中学時代
麻雀に劇ハマりしました。
きっかけは忘れましたが、僕が本屋で「東大式麻雀入門」みたいな本を買ってきて読んで覚えましたね。
そして一人ではできないので、周りの友達を巻き込み、麻雀を教えまくってました。
始めは、中学校に麻雀牌を持ち込んでやっていたのですが、どうも持ち込みは禁止らしく、しょうがないので、ダンボールと画用紙を使い手作り麻雀牌を作り麻雀をうっていました。
主に休み時間にやっていたのですが、それだけではもの足りず、数学の時間を使い麻雀をやることにしました。
数学の授業を選んだ理由は、僕は唯一教科の中では数学が得意で、授業の範囲を超えて勝手に予習していたので、授業中いつも退屈だったからです。
しかし、数学の教師としては授業を真面目に聞いてくれないと気がすまないらしく、何度も注意されましたが、
「授業は数学を理解するための手段、すでに理解してる人にとっては不要、教室の端で邪魔にならずに麻雀してる分には問題ないはず」
と僕がいくら反論しても、「授業は真面目に受けるべきもの」と言われ聞き入れてもらえませんでした。
そしてこの頃から僕は、固定観念や慣習に固執して、議論ができない大人がだんだん嫌いになってきました。
「昔から決まってることだからつべこべ言わずに従え」的なことをいう人ですね。
嫌いなのは、教師にも伝わっていたらしく、僕の数学の通知表はいつも3しかついてませんでした。
テストでほとんどノーミスだったのにも関わらずです。
項目のうち半分くらいが、「授業を真面目に受けている」とか「発言を積極的にする」とか本質とは関係のないものが多かったからというものもあります。
結局日本の教育というのは、従順なるサラリーマンを多く作ることを目的としているので、このような横並びな授業の進め方、評価基準になると思います。
そして恐ろしいことに現在もこの教育制度は変わっていません。
この時から20年以上たっているのにです。
そんなことで僕は子供を公立には通わさず、わざわざ長崎に引っ越し高い授業料を払ってまで「きのくに学園」に通わすことになったのです。
この辺の話はあとで出てきます。
高校受験
内申点が最悪で地元の中の下の公立も受からないと言われた僕はしょうがなく、私立の学校を受験しました。
そこは、長野県でも珍しく毎年数人の東大合格者が出るというゴリゴリの進学校で、しかも僕はなぜかその中でも一類と言われる進学クラスを受けることになりました。
受験当日、何と前日にやった問題とまるっきりおんなじ問題が苦手な英語で出題されるというミラクルが起こり、合格してしまったのです。
受験前の3者面談で、「菊本君はどこにも受かる高校がありません、白馬高すらもです。」と自信満々で言っていた担任が受験後僕を職員室に呼びました。
そして悔しそうな顔で無言で合格通知を渡してきたのは今でも忘れられませんw
菊本、本番強し!
地獄の高校生活
受かった高校は地元からかなり離れた場所にあったため、僕は寮生活をスタートすることになりました。
寮は二人部屋で同室は1つ上の先輩だったのですが、そいつがキロロの大ファンで、毎時間キロロのヘビーローテーションを聞かされることになり、入学早々発狂しそうになりました。
「ながいあいだー待たせてごーめんーねー」
を聞くたびに終わりないゴールがさらに長くなったような気がしてしまったからです。
さらに地獄なことにその寮は、
門限は18時、20時までに飯、風呂を終え、20時から22時15分まで食堂に集まっての強制勉強タイム、そしてそれが終わると22時半消灯でそこからは他室訪問禁止
といった超厳しいルール
また、先輩と廊下ですれ違う際は「こんにちわ」といちいち言わないといけず、言わないと1回目は注意、2回目になると恐怖の403号室に呼び出され、絞められるという暗黙のルールまで存在したのです。
そして、そのような絞めを行ってるのは主に2年生とのことでした。
自分達が今まで1年生でやられてた立場だったので、やり返したいというわけですね。
そして、ぼーっとしていた僕はすぐに2年から締めのターゲットにされかけていると噂が流れてきました。
2年生はことあるごとに、「挨拶の声が小さい」「掃除のやり方が雑」などと言って僕に絡んできます。
403に呼び出されるのももうすぐだな、と腹をくくっていた時、解決のチャンスが回ってきたのです。
それは、確か入学して2週間くらいのことでした。
消灯間際のこと、人相の悪い3年生が部屋に入ってくるなり、同室の先輩にこう言いました。
3年「お前麻雀できない?一人メンツ足りないんだわ」
同室「僕はできないですね」
そして恐る恐る自分が手をあげ、「自分少しならできます」と言ったのです。
3年「1年か、まあサンマよりはましか、じゃあ今日消灯後403までこいや」
僕「はい!」
え、でも403って、、
まさか麻雀のていで今日僕絞められるんじゃないよね?
果たして僕は行っても大丈夫なのか
そもそも消灯後に他室訪問しても大丈夫なのか
といった軽いパニックを起こしながら、消灯後403に行くことになったのです。
そして、そこで僕は絞められることはなく無事に麻雀をすることになります。
打ってるメンバーは、3年生の中でも番長クラスのやばい人ばかり、挨拶は今までしたことはあっても、それ以上は怖くて話したことない人達ばかりでした。
こえええ
麻雀が始まると、「お前1年のくせに大丈夫なのか?」
などと言われながらも、僕はもくもくと麻雀を打ちました。
麻雀で一番嫌われるのは、「打つのが遅い、積むのが遅い、点数計算ができない、すぐ不機嫌になる」ことなのでその逆を意識してやってるとすぐに3年生に気に入られました。
そしてそれから毎晩403に呼ばれ出したのです。
当時、絞められることなく403に出入りすることができた1年生は僕くらいでしょうw
ちなみに僕らが麻雀してる横で同学年の子が絞められてるという謎の場面にも何回も遭遇しました。
それから僕の麻雀生活が始まります。
大好きな麻雀が毎日打てる喜び、そして3年の番長クラスとつるんでるので2年は一切絡んで来なくなるというおまけ付き
僕の高校生活は、地獄からいっぺん天国に早変わりしたのでした。
そして、麻雀といえば、酒、タバコもつきもの
その頃から僕は、麻雀、酒、タバコにどっぷりとハマるのでした。
学校の授業は、夜酒を飲みながら麻雀するので午前中は二日酔いと寝不足でだいたい寝て過ごし、午後からは数学の演習問題をといて遊んでいました。
しかし2年生になったすぐに事件が起こります。
外でタバコを吸っていたのが先生に見つかり、停学処分となってしまったのです。
そして、その停学が終わった後も懲りない僕は、酒、賭け麻雀などが次々と見つかり最後はとうとう強制退学となってしまったのです。
賭け麻雀がダメな理由は、その頃負けがこんだアホが自分の金では支払いきれず、タバコや酒を万引きしてきて代物弁済するという愚行をおかしていたからでした。
そしてその大元が、主に賭け麻雀で儲けていた僕だったのですw
高校生活さよーならー
大検受験からの大学受験
違う高校にいこうというアイディアも出ましたが、また変なルールに縛られるのも嫌なので、大検を受けてから大学受験することにしました。
大学受験を選択した理由は、高校を退学した時母親が大泣きし、その心中を聞くことになったからでした。
母親は父親と共にペンション経営者で自営業の大変さをよく嘆いていました。
自分と同じ自営業者に息子はなってほしくない。
自分の息子は高校をちゃんと卒業して大学に行き、勤め人になってほしいと考えているようでした。
ということで、まずは大検受験です。
とりあえず、過去問を取り寄せて全部といてみると、ありえないくらい簡単なことに気がつきました。
そのころのテレビ番組「大検ハイスクール」の影響か、大検=難しいと間違った認識の人も多く、僕が大検受験の話をすると、
「よく受かりましたね」
と言ってくれるのですが、はっきり言って本当に簡単です。
過去問を見た瞬間半年後の受験の合格を確信し、そこからは通常の大学受験に勉強をシフトしました。
予備校は、東進ハイスクールを選択し、英語の安河内、数学の長岡、生物の田部などのカリスマ講師の元で1日12時間勉強しました。
彼らの作る授業は毎度、心揺さぶられるくらい感動し、理解でき、どんどん授業を吸収して行きました。
本物の授業とはこうゆうものかと心の底から思いました。
特に生物の田部から多大な影響を受け、僕は、彼の出身校の東京農工大学農学部を志望校に決めるまでになったのです。
数学しかできなかった僕が、農学部を受けることになるとはw
また、東京農工大は国立大学であったため学費が安いというのも大きな決め手になりました。
理系私立と比べると3倍授業料が違います。
東京で一人暮らしをし、親に学費を出してもらうとなると理系私立は学費が高すぎました。
ということで東京農工大を志望校一本にすえ、毎日勉強の日々を過ごすことになります。
ちなみに、大検の受験は当然合格しました。
本当にふざけたことに、受験当日の昼休みの時間に暇つぶしにパチンコにいき、もう次のテストが始まるから帰ろうと思った時に確変が当たりました。
打ち続けるかどうか悩みましたが、次は自分の得意な数学であったこと、遅れても30分以内なら受験ができることを知っていたので、そのままギリギリまで打ち続け、テスト開始時間を25分オーバーして入室してテストを受けても時間が余ったくらいです。
それくらい余裕をかましていたので、大検からの通知(合格か不合格か中を見ないとわからない)が届いてもしばらく玄関に放置されていたほどでした。
まあ、大検はそれくらい簡単で落ちる方が難しいので、どうでもいいとして、問題は東京農工大の方です。
こっちはぼちぼち難しいのです。
センター試験で全教科(英語、国語、数学、現代社会、生物)を受けて平均8割を取らないといけません。
センターを受けたことある人ならこれがどれくらいの難しさかわかってもらえると思います。
物覚えが悪い僕でも、それなりの時間やると覚えるもんですね。
1月にセンター試験を受け、ちょうど8割取得、2月に滑り止めに受けた明治大学は合格、そして国立前期の2月半ばに二次試験の数学、生物を無難にこなし、晴れて東京農工大に合格できたのです。
やったー!
あー大学受験大変だったw
大学生活
田舎から東京にくるととっても楽しいですよねw
勉強はもちろん一切せずに、遊びまわってましたw
主に、麻雀(またかい!)、酒、ナンパ、クラブなどです。
その頃、僕は何を思ったかキャバクラで黒服のバイトを始めており、その時仲良くなったギャル男のお客さんと仲良くなりました。
そのギャル男は本当に面白い人で、ギャル男のくせに頭が良く、会話の引き出しが多いので女にモテ、夜遊び経験も豊富で憧れの人になりました。
そのころ、その人から、クラブ遊びなどを教わり、毎晩遊びまわってました。
また、それと同時に海外のクラブやレイブ遊びにも興味が出て、バリに行きビーチで踊ったり、アムステルダムのクラブに2日間入り浸ったり、タイのパンガンで1ヶ月パーティ三昧していました。
本当に楽しかったですw
そんな感じで大学生活があっと言う間に終わり、気づいたら卒業の日が近づいていました。
もちろん、就活は一切していません。
遊んでいたのでする暇がなかったのですw
フィジー生活
大学中海外に良く行ってたことで、海外留学に興味を持ちました。
どうせ卒業後やることもないので、「物価が安い、あったかい、英語を喋る国」を探していたところフィジーが候補に上がりました。
フィジーに行きたい!
と無性に思い始め、その勢いのまま、フィジー留学を取り扱う会社に直接出向き、そのまま契約してきました。
そして僕のフィジー留学が始まります。
僕の英語のクラスは始め、真ん中のクラスからスタートになりましたが、最後は一番上のクラスまでステップアップしました。
それは、その学校の授業であった、「モーニングトーク」という毎朝各自が自由に話す時間、「ディベート」で英語で意見を取り交わす時間が自分の性格に合っていたからでした。
特に、「ディベート」は最高でした。
もともと議論好きの僕は、日本では誰も付き合ってくれなかった議論を心ゆくまで論じることができ、言いたいことがあるけど英語で言いづらいもどかしさをモチベーションにしてどんどん英語が上手くなって行きました。
また、授業が終わったあと僕は行ったことないとこに行ったり、クラブに行ったり、知らない人の家で飯を食ったり、と話題が豊富にあったので「モーニングトーク」でも聞いてる人が面白がり、受けるから話すと言う好循環になっていったのです。
英語ってこうやって学ぶんだと思いました。
また、学校が休みの時は、フィジーの離島にも良く出かけました。
離島では、海でバシャバシャしたり、フィジアンダンスを見たりとありきたりなことをしていたのですが、ある出来事が僕の人生に大きな影響を与えることになるのです。
それは、ダイビング好きの友達と海にいった時のことです。
その時は、友達にフィンとマスクを貸してもらい海を泳いでいました。
そして深くなったところで、友達が「ちょっとここで潜ってみるか」と言って潜り始めたのです。
浮上後彼が僕にダイブコンピューターを見せ「15m潜った」と言ってきました。
僕は、なんだか自分もできる気がして、彼のダイコンを借りると、さっき彼が潜ったように自分も海に潜り、帰ってきてダイコンを見たら、
なんと同じ15mまで潜れていたのです。
全く苦しくなく、そして耳抜きもスムーズにスポスポ抜けてしまったのでした。
僕はその時、それが特別なことだとは思わなかったのですが、後々それは特殊な能力だということに気がつくことになります。
就職
フィジーから日本に帰国し、東京の不動産会社に就職しました。
僕はその時やりたいことが何もなかったため、とりあえず儲かりそうな職業ということで不動産屋を選んだのです。
そして、僕は初めてのサラリーマン生活に強いストレスを抱えることになりました。
まず、一番やばいのは満員電車です。
慣れない満員電車のせいで、始めの1週間は駅を降りた瞬間、道で吐いてました。
ストレスがすごかったのだと思います。
業務も、慣れない書類作成や契約書の文言作成、決算書の読み解きなど、法律系を覚えることが盛りだくさん。
しかも、その会社では宅建を持ってないと二流扱いされるという文化があったため、寝る間を惜しんで勉強をしなんとか一年目で取得することができました。
また、週末には週報という名前の作文を最低1200文字で書かなければならず、本当に大変でした。
僕は週末、よくクラブやレイブにいって遊んでいたので、本当に時間がなく困りました。
でも今考えたら、強制的にやらされることで宅建も取得できたし、文章の書く練習にもなったので、まあメリットもあったということにしましょう。
まあ、こんな感じで大変だったので、2年を過ぎたあたりから毎日辞めたいと思っていました。
そして、そんな時、親戚のおじさんからこんな電話が来ることになったのです。
飛田新地経営
「飛田新地一緒に経営せんか?」
飛田新地は男なら知ってますよね?w
お世話になった人もいるんじゃないですか?w
そう大阪の超有名な風俗街の経営の話だったのです。
おじさんがどこからその話を持ってきたかは全く謎でしたが、直感的に面白そうと思った僕は、「やります!」
と言い、次の日には会社に辞表を出し、次の週には大阪に旅立っていったのでした。
そして、飛田経営が始まります。
飛田新地というところは、女の子を玄関先に座らせ、そこを通りかかった男がその料亭に入り、ビールをつぎに来たさっきの女の子と秒速で恋に落ち、一仕事終わらせて帰るという仕組みになっています。
その間なんと15分
ロミオとジュリエットもびっくりの短時間恋愛物語なのです。
そして、この商売のキモは何かと言うと、「玄関に座る綺麗な女の子を一定数揃える」ことなのです。
さて、どうやって集めようか?w
僕は、考える限りのことを毎日こなしていくことにしました。
ちなみにおじさんは一切手伝いませんw
具体的には、ミナミで自らスカウト、ミクシー、ホスミク、出会い系サイト、出会い喫茶で連れ出し飛田打診、風俗店からの引き抜き、セクキャバからの引き抜き
まあ、こんな感じで女の子を集めてたのですが、所詮素人
女の子は、店に入店するもすぐに辞めるをずっと繰り返し経営はどん底状態が続いていました。
赤字経営が1年間続き、もうダメだ辞めようとした直前、僕が手作りで作った求人サイトが突如ブレイクし、全国から月に20人もの応募が来るようになったのです。
辞めなくてよかったw
こっからの詳細は長くなるのでまた別の記事で書きますが、これだけの応募がきては自分の店だけでは処理できず、他店にも紹介しまくってました。
通算3年間で200人以上の女の子を飛田新地に紹介したと思います。
個人でこれだけの実績を残したのは飛田でも珍しいでしょう。
ということで、僕はこの頃から金銭的、時間的にだいぶ余裕が出るようになったのです。
そして、そのタイミングで次何をしようかなとふと考えた時、フィジーでの経験を思い出すことになるのです。
あれ、俺そういえば素潜り得意だったな、どこまで潜れるか興味がある
ということでフリーダイビング の世界に入っていくのでした。
フリーダイビング 生活
僕は大阪に住んでいたので、「大阪 フリーダイビング 」とまずは検索し、ヒットした無限というチームのもとで練習を始めます。
僕はそれまで、自分はスポーツが不得意と思い込んでいたので、練習すればするほど記録が伸びるフリーダイビング にのめり込んで行きました。
初年度で確か30mくらいまで潜れたのかな?
そこから順調に記録を伸ばし、2年目で40m
3年目の沖縄の沖縄大会では50m
4年目フィリピンパングラオの大会で60m
そして去年、フランスニースの世界大会で72mを成功させました。
来年は80?
長崎移住
フリーダイビング を長くやってると綺麗な海の近くに住んでみたくなります。
そして、僕は綺麗な海から遠すぎる大阪がだんだん嫌になってきてました。
そんな折、長男が小学校に入学する歳になり どこに進学するかについて考えることになりました。
妻と色々話し合った結果、「きのくに学園」に行かせたいという結論にいたり、体験入学に長男を行かせたところ、長男も気に入ったようでした。
きのくに学園は全国に和歌山、山梨、福井、北九州と4つあるのですが、どれも山の中にあり海好きの僕はどうもピンときてなかったのですが、なんと2019年から新しく長崎校ができるというではありませんか!
しかも、憧れの海の近く
早速、長崎のきのくに学園に願書を出すことになり、無事入学がきまり、僕らは家族ごと2019年4月長崎県東彼杵町に引っ越してきたのでした。
憧れの長崎生活スタート
移住してから始めの3ヶ月くらいは、ずーーっと魚突きばかりしてました。
大阪の時には見ることができなかった、クエやヒラマサが長崎の海にはバンバンいて、興奮しすぎて辞められなくなったのです。
とった魚は食いきれないので近所に配りまくってたら、友達が増えましたw
また、家族ごとノープランで長崎に移住してきてるので、仕事はどうしようか考えてたのですが、
せっかくなら素潜りと魚突きの特技を生かして、Youtube 配信したらおもしろいんじゃないかなと考えました。
考えたら即行動です。
友達二人を誘い、魚の多い海のきれいな無人島に行き、1カ月滞在して動画を配信しました。
それが、みなさんご存じ「お魚わっしょい」の誕生の瞬間です。
コロナで無人島ステイのコンセプトと葉っぱの写真がバズり、配信4ヵ月でメディアにも多数取り上げてもらい、登録者数も6500人を突破しました(2020年9月現在)
無人島の後は、カヌーで瀬戸内海横断を成功
35日間かかりました笑
これからも配信続けていきます!
最後に
ここまで読んでくれた方、長いことお疲れ様でした。
プロフィールというより菊本の半生になってしまいましたねw
僕は今までいろんなことを途中で辞めてしまってることも多いです。
だけど、フリーダイビング や魚突きのようにずっと続いてることもあります。
人生何が自分に向いてて、何をすることが幸せなのかは、やってみないとわかりませんよね。
やる前に予想してたことと、やってみて感じたこととが全く違うことがよくあるからです。
そしてその感じたことを一般論や偏見ではなく自分の言葉で喋れる人間になりたいと思っています。
一般論や思い込みばかりで話してる人ってつまらないですよね?
自分はそうゆう人間にならないように、いくつになっても行動し続け、その経験から感じたことを周りにわかりやすい言葉で共有できる人になっていきたいと思っています。
長いこと、ありがとうございました!