僕は小さいころから、親、教師、宗教、国などが取り決めるルールは、「縛られる側」の自由、幸福を考えて作られているものなのか?
単に管理する側にとって「管理しやすい人を増やす」という目的のためにあるんじゃないか。
ということに疑問を持ち続けながら育ってきた。
その背景として、僕の親が熱心な創価学会員であるというのも大きく影響している。
親の影響
僕は朝起きると、勤行と言われる30分かかる長いお経読みを開始する。
これが毎朝繰り返されるので、小学校低学年のころには、はじめから終わりまで暗唱できるようになっていた。
何のストーリー性もない、ただの音の羅列なのにである。
そして不思議なことに、それは現在でも暗唱できる。
万が一、寝坊した場合は、朝食よりも勤行の方を優先させられる。
僕の母親は地区部長という役職だったので、月に何回かは僕の家で地域の学会員が10~15人くらい集まる座談会というイベントが開催されていた。
そこでは、「日蓮」の考えをみんなで勉強したり、悩みや目標としていることをみんなで共有し、一緒に考え、一緒に祈るという内容の会だった。
このような人が集まれるコミュニティがあり、悩みを共有できるのはいいことだ。孤独を防げる。
しかし、一方その当時の学会は排他性が強く、
「神社にお参りにいくな」「寺にいくな」「地域の祭りに出るな」「神社に行くときは鳥居をくぐるな」
といった教えがあり、親とともにその方針に従っていた僕は、子供ながらに
「なぜ、僕だけ周りと違う行動をしないといけないのか?」
といった疑問をかかえていた。
しかし、親からは、「それが学会の教えだから」という理由になっていない回答が返ってきて、当時からとてもいらいらしていた。
このようなことから、親の言うことをさほど信用しない子供になっていった。
中学校教師の影響
僕が、中学生の時一番好きだったものは数学だった。
疑問をぶつけても、回答になってない言葉ばかりが返ってくる親との会話に、もやもやを感じていた僕は、「答えが自力で導き出せる」数学にはまった。
例えばこんな感じで数学と戯れていた。
ピタゴラスの定理の時にでてくる3:4:5の三角形のことを覚えている人もいると思う。
3²+4²=5²の法則だ。
僕は、これ以外に直角三角形が整数比になる法則は存在するのか?
ということに疑問をもち、あれこれ試行錯誤して考えることにした。そこでひとつアイディアを思いついた。
まずは、一番小さい辺の3²を考える。答えは9だ。
この9を図の黒丸のような形に並べ、そこに内接する正四角形を白丸で書きいれると、1辺4の四角形がはまり
3²+4²=5²が一目で成り立つのがわかる。
では、次
整数比として成り立つ三角形の最小の値が4の時を考える。
4²=16となるが、解が偶数では、9を黒丸で並べた時のように角の一マスを確保できないため、成り立たせることは難しそうだ
では次、最小値を5のときを考える
5²=25これを並べると図のようになる
つまり、5²+12²=13²となるのがすぐに理解できる。
では一般化してみよう最小値N(Nは奇数)を考えると
(N²-1)/2 これが二番目に小さい数
そして、(N²-1)/2+1=(N²+1)/2が一番大きい数
になり、まとめると
直角三角形において、整数比となる組み合わせは、最小値をN(Nは奇数)としたとき、
N,((N²−1)/2,(N²+1)/2
という解を導き出した。
具体的な数字を当てはめると
(3,4、5)(5,12、13)(7、24、25)(9、40、41)(11、60、61)とどれも成り立ち、かつ無限に存在することがわかった。
しかし、これが完全な解ではない。
次に、最小値の2乗を2段で囲う方法や3段で囲う方法などもためし、最終的には自分なりの法則が完成した。
3年生の時の数学の授業中はこんなことばかりして、自分の興味ある分野の理解を深めていた。
また、うまく考えが導き出せない時には、授業中であろうと寝て休息をとっていた。
数学の先生からは、「授業をまじめに受けろ」さもなくば「内申点」が下がるぞと脅されたが、なぜそれに従わないといけないか理解できない僕は無視して自分のやりたいことを優先していた。
そんな感じで数学ばかりやっていたので、学内のテストの数学の成績はトップクラスだった。もちろん何も手を付けていない他教科は散々。
そして、学期末になり、通知表を受け取り、うきうきして数学の欄をみると、なんと3と表示されていた。(5段階評価)
細かい項目に目を通すと、「授業をまじめに受けている」と「宿題をきちんと提出」するの欄に△がついており、総合評価で3になっていたのだ。
そもそも、授業をまじめに受けたり、宿題をきちんと出すのは、数学の理解を深める手段のはずだ。
数学の理解を深める手段として自習を選んでもそれは間違いではない。
先生という生物は、得ようとする結果よりも手段に重きを置く。
このことにより、通知表という評価システムは、子供たちの幸福(数学を理解できるようになったという気持ち)のためではなく、大人たちが「子供を管理しやすくする」ために存在しているシステムといえる。
このような経験から、ぼくは教師、および大人が考えたシステム自体を信用しない子供になっていった。
高校時代
今まで話した経緯により、僕の内申点はすこぶる悪く、地元の不良が行くバカ高ですら入るのが難しいと担任(ちなみに数学教師でもある)に言われた。
そこで、内申点の一切関係ない私立の進学校を受験してみると、普通に合格した。
中学時代三者面談で、「菊本君は行ける高校がありません」と言っていた担任が合格通知を僕に渡したときの悔しそうな顔が今でも忘れられない。
うきうきと高校生活を楽しみにしていた僕は、入学初日面を食らうことになる。
ルールが多すぎたのだ
「寮内で先輩にすれ違ったら都度あいさつ」「1年生の使う風呂は狭い方」「食事の時は後ろの方の席に座る」「20時から22時15分は強制勉強タイム」「交際禁止」「将棋、囲碁はいいが麻雀は禁止」「賭け事禁止」「酒、たばこ禁止」「テレビの持ち込み禁止」「漫画禁止」........
とまだまだこれの10倍くらいのルールがあった。
ぼくは、それまでの15年間で意味の分からないルールに従うということに本当に拒否反応がでていたため、結果としていろいろなルールを破ることになった。
例えば、内緒で女の子と付き合ったり、寮内で夜集まって賭けマージャンをしたり、漫画やエロ本を読んだり、酒を飲んだり、たばこを吸ったり、、、
そんな感じでいろんなルールを破るたびに、先生に怒られ、時には停学となった。
その都度、なぜ、そのルールが制定されているのか?それは管理者側の都合ではないのか?という疑問を投げかけていたが、返ってくる返答は
「ルールはルール」「学生らしく勉強しろ」などの理由になっていない返答ばかりだった。
そんな感じで不良扱いされていた僕は、とうとう高2の冬、学校から「退学」を言い渡された。
こちらに選択肢のない一方的な告知だった。
自分が正しいと思うルールに従って生きてきた結果、僕はただの中退者となった。
最近の出来事
アウトドア系Youtubeチャンネル「お魚わっしょい」を結成後、無人島で1カ月過ごしたり、カヌーで瀬戸内海を渡ったり、やぎを捌いたり色々した。
そこで、警察沙汰になることが何度かあった。
例えば、海で魚突きをしていると誰かさんが密漁と勘違いしたらしく警察に通報し、1時間も拘束されたこと。※貝の採集は違法。魚突きは合法。
裸になり陰部をパドルで隠しサムネ写真を撮影していたところ、「公然わいせつ」で事情徴収され3時間も拘束されたこと。
無人島滞在時、山で見つけた鳥を捌いて食べたら、「鳥獣保護法違反」になるとコメントがあったこと。
買ってきたやぎを捌いて食べていたら「と畜場法違反」であると言われたこと。
それの一つ一つが納得できないことだと強く感じた。
どのような場所に問い合わせて聞いても、「法律は法律」「ルールはルール」という話にならない返答しか返ってこなかったのが理由だ。
長くなりましたが、このような経験を多くしてきた背景により、僕は、親、教師、宗教、国などが取り決めるルールは、
「縛られる側」の自由、幸福を考えて作られているものではなく、 単に管理する側にとって「管理しやすい人を増やす」という目的のためにあるんじゃないか。
という仮説をたてています。
そして、このブログでは、ルールの中でも「法律」に焦点をあて、その目的や歴史を深堀りし、調べ、考えることで、その法律の存在理由についてアプローチしてみたいと思います。
結論的に、その法律が「管理者側の都合」のみによって成り立っているのであれば、その法律は本質的に従う必要がありませんよね。
僕らの自由を守るためにも、僕は時間をかけ、調べ、自分の頭で考え、このブログにつづっていきます。
では、どんどんやっていくのでお楽しみにしてください!